インクと紫煙と珈琲と。

買った本、読んだ本。数多ある本たちとの数奇な出会いを綴ります。

2017/03/11

6年、経ったんですね。東日本大震災から。

6年前、二十代になってまだ間もないころ、関東での生活がやっと少し落ち着き、恋人なんぞを作って過ごしていた日々でした。
当時働いていた職場は大型ショッピングモール。駅直結の2階で働いてました。休憩を終えて仕事に戻り程なく、関東も地震に襲われました。
2階とは思えないほどの揺れに店内の天釣りポップ関係は荒れに荒れ、自分自身も走るはおろか、立っているのすらぎりぎりの状態で近くのカウンターにしがみつくのがやっとだった。
今でも、身体が忘れてくれることはなく、暫く地震PTSD状態でした。
揺れが落ち着いてから混乱するお客を誘導し外に避難すると、近場の高層ビルたちがまるで蒟蒻のようにグラグラと揺れてるのを見て、ゾッとしました。
来客を避難させ、従業員も避難した関東も3月と言えど寒い日でした。東北はそれ以上に寒かったでしょうが、店内制服を着用していたため、寒さに震えていました。
業務上、携帯の所持が許可されていなかったため、持っていた人に携帯を借り、一先ず実家に連絡。実家もあわや津波の恐れがありましたが、無事に済みました。
ワンセグ付きの携帯を持ってる人のところでニュースを見て、初めて東北での地震津波を目の当たりにし、戦慄しました。
自分たちの居たところで震度5弱の震度は7を示し、津波の濁流に飲み込まれる車、家、木々。「東日本が沈む」という恐怖が暫く拭えませんでした。
歩いてなんとか帰宅出来る距離に家があったのでこの日は夕方を過ぎた頃、歩いて帰宅しましたが、脚が竦み30分も歩けばたどり着くはずの家に着いたのは1時間半後でした。

ふと、頭に過ぎったのは高校時代の同級生の友人。当時、東北の大学に通っており就活をしていたはずの友人を思い出し、一気にパニックに陥りました。当然のように繋がらない電話。実家に縋るように電話をし、友人の実家の番号がわからないか確認するもわからず、絶望的な状況でした。「大丈夫だったら、落ち着いたら連絡して」とメールだけを入れ、NHKの安否情報を見たくない気持ちを抑え、眺めながら涙が零れました。どれだけ、己が無力か。たった一人の人間が、出来ることなんてたかが知れてて、残酷なほどに少ないことを、この瞬間改めて体感させられました。

3日後、友人から漸く電話が着たとき、安堵と同時に申し訳なさに再び涙が零れた。友人の生きる力が強かったから、「たまたま」生きられたんだ、と思わざる負えなかったのは、友人の家は半壊状態だったにも関わらず、就活の面接に行っていたビルが無事だったおかげで難を逃れたと言っていました。そして友人は現在、一度地元に戻り、再び東北で、新しく建った建物に住んでます。

己の事を振り返れば、計画停電や公共交通機関の麻痺、物資不足や、就業先がスプリンクラー作動により、一時的開店不可能により、他店にて就業を余儀なくされる、といったことがあり、関東にも関わらず、ストレスは多大なものでした。何より、人が恐かった。計画停電による真っ暗闇の街路で、信号が作動しなくなった車道で罵声を浴びせ合う人たち。我先にと、ものを欲する人たち。電車の運行がままならない状況に怒る人たち。

「当たり前」が人をおかしくするんだと改めて恐ろしくなり、一人でいるのが本当に恐かった。

この後、熊本の地震の他にもたくさんの地震があいもかわらず日本を襲う。地震大国なんて言葉、大嫌いです。自然の力に人間は敵わない。抗うことがそもそも間違いですが、失った命は自然さえ、簡単に奪っていいものではない。自然も命。生命と生命の共存が、もっともっと可能な世界になってくれることを祈るしか出来ませんが、この3·11東日本大震災は、体験した人間すべて、忘れることは許されず、それぞれ傷として永久に心に残しておくべきことだとつくづく、想います。
何年経っても、変わらず思い続けよう。逃げずに目を背けずに、語り継いでいかなければいけない。十人十色の東日本の住人たちのリアルな話を、伝えていくべきだ。そうして時代は伝承されていく。


亡くなった、犠牲になった方々を、あの日を、忘れない。


哀悼の意を込めて。

江崎 すみ歌。